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「坐禅は心の安楽死」横尾忠則の精神性とスピリチャル

横尾忠則の精神性「坐禅は心の安楽死」 読書録

最近読んだ本の話をば。

数年ぐらい前から、ちょこちょこと瞑想を習慣に取り入れています。

昨今話題のマインドフルネス瞑想から、体のリラックス効果や落ち着き、集中力を目的としてやっていますが、これがなかなかいいです。

毎日続けていると、感覚的に心地よいものがわかってきて、表には出ないけれど効果を実感。普段の生活でもイライラとか減ってきたような気がします。

そういう風に瞑想に興味を持ってくると、同じような系統で坐禅にも興味を持つようになりました。友達に曹洞宗のお坊さんがいるので坐禅を教えてもらったり、それに関する本なども読みました。

そんな坐禅の本の中で、ちょっと毛色の違う本を発見。芸術家、横尾忠則さんの「坐禅は心の安楽死」。ちょっとショッキングなタイトルの本。

横尾さんといえば、昭和平成と活躍し続けるアーティスト。今でも現役で、2019年の大河ドラマ「いだてん」のロゴなども担当されています。

そんな横尾忠則さんが書いた「坐禅は心の安楽死」では、アートに対する心構えや精神性、はたまたスピリチャルな部分まで言及は幅広く。

長年にわたり、多くの人を惹きつける横尾忠則作品の秘密が垣間見える本です。

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横尾忠則と坐禅。作品への精神性とスピリチャル観

「いだてん」のロゴも担当。芸術家横尾忠則

横尾忠則さんを芸術家ととらえるか、グラフィックデザイナーと捉えるか、人によって様々だと思います。私はあえて芸術家と呼びたい。

横尾忠則さんといえば、伝説的な寺山修司の実験的劇団「天井桟敷」のポスターなどが有名。ビビッとな色使いと大胆な構成。そして独特の間(スペース)など、ある種深い精神性すら感じられる、他に類を見ない作風が特徴。

80歳を超えていますが、2019年の大河ドラマ「いだてん」では、これまた独特のロゴマークを仕上げています。

私もデザインの仕事をしておりますが、最初に「いだてん」のロゴを見たときは、色々とショックを受けました。色々理屈や理論を超えた強烈な魅力を感じたからです(参考:「いだてん」注目!たけし演じる志ん生がわかる「やっぱ志ん生だな」)。

私の中での横尾忠則さんといえば、昭和の時代から現代にかけてまで、常にギラギラとしたエネルギッシュな人という印象があります。

意外?坐禅にハマる

そんなエネルギッシュな横尾忠則さんと坐禅っていうのは、なんだか妙な気がしました。

座禅といえば、静の世界。横尾忠則さんのイメージや作品の世界とは全然違うような気がしたからです。

「坐禅は心の安楽死」には曹洞宗大本山総持寺での個展がきっかけとあります。

たまたま、禅堂に案内され、そこで修行中の若い雲水の厳しい修行生活を見たのがきっかけである。仏道一筋に打ち込んでいる雲水の姿に僕は驚くほどの美しさを感じた。
(中略)雲水の前では自分はどういうわけか、汚れてみえた。また小さくも感じた。だが雲水の上に自分の姿が重なっていくような気がしないでもなかった。次第にぼくの中に前への憧れと冒険心のようなものが沸き起こっていくのが感じられた。

それがきっかけで、その場で参禅(師について禅の修行をすること)の申し込みをしてしまい、禅を体験することに。

横尾忠則さんの作品は、普通の道理などを超えたところにある、ある種精神性を感じられ魅力がありますが、そういうところと禅がうまく合ったのでしょう。

それから、様々なお寺に坐禅を習いに行き、禅の精神性やそこで感じた事、悟り、スピリチャルについてなどが書き連ねられています。

横尾忠則の作品に感じる精神性やスピリチャルさを垣間見る

瞑想、坐禅、ヨガ

すべての坐禅がハマったというわけでもないみたい。永平寺での修行では、かなりしんどい目にあったらしく、それから禅への疑問などが多く出てきています。

悟りを開いたお坊さんに悩みを相談するも、まさに禅味というべき、なかなかすっと理解できない答えを出され、それにも混乱する横尾さん。わからなかったり、悩んだりする中で徐々に自分なりの禅への理解の道を深めていく姿が書かれています。

「坐禅は心の安楽死」を読んでいると、横尾さんは禅に対してスピリチャルな意識ももたれているよう。私はどちらかといえば、禅に対してはそういうものを抱いた事がないので、興味深かったです。そういう思いなどが、ところどころ文章にもでています。

異なった思想は自分と他人を区別する。この区別が暴力を生む母胎となる。世界がひとつになるためには心がひとつにならなければならない。思想が支配する領域はせいぜい表面意識だが、真理は魂の領域にすでに存在している。そして、人間だけではない、万物は魂の領域ですべて通じ合っているのである。魂とは硬い皮膚の内側のことである。皮膚の内側では四十億の人間はすべて「私」の一部分である。
もし四十億の人すべて皮膚を裏返せば、何もいうことはない。世界は一つになり、そこには真の平和と安らぎがもたらされる。自分の内部を変革しないで、外界を変えても再び、内部から崩壊していく。

この一文などは、どことなくエヴァンゲリオンの人類補完計画を思わせるような文章。禅で学んだ事と、自身のスピリチュアルな精神性とが混じり合った結果の、新たな横尾忠則イズムが生まれているよう。

ぼくの考えでは創作は一種の精神統一だと思っている。極端ないい方をすれば、念の強い人間なら誰でも芸術家になれるというわけだ。頭の中にイメージしたものをそのまま形に表せばいい。念の世界でイメージが固まったものは必ず三次元の世界に物体現象を表すというのがぼくの信念でもある。(中略)
念は四次元世界を一度通過して再び三次元に姿を現わすのである。だから創作は技術ではなく思念する力が強いかどうかでその大半は決定するというのが僕の考えである。(中略)絵が描けないという人は頭の中に形をありありと描き切ることができないだけのことである。箸で米粒をはさむ事のできる技術のある者なら誰でも絵が描ける。

絵を描く人間ならば「へへぇ〜」と平服したくなるようなお言葉。「そんなこと横尾さんが天才だからできるんだよ!」と言いたくなるような精神論的内容でもあります。しかし、やはり横尾忠則さんの作品はご本人がおっしゃる、これほど強い念があるからこそ描けるのだなとその秘密が分かったような気もします。

横尾さんの言葉を借りるなら、ありきたりの念や精神力では、高い次元の作品は描けないということでしょうか。小手先だったら誰でも描けるし作品は作れる。しかし、その作品が人の心を感動するレベルとなると、やはり作家さんが持つ、強烈な念や精神性(思い?)が必要不可欠。

おそらく横尾さんにとって、禅はそういう念や精神性を鍛え、不純物を叩き出し、より研ぎ澄まされたイマジネーションを持つためのシステムとしても有益に働いているのではとも思いました。

なぜ「坐禅は心の安楽死」なのか?

この本のタイトルには「安楽死」とちょとショッキングな言葉がつけられています(元々は「我が坐禅修行記」)。

坐禅することは、ある意味で去来してくる雑念との戦いみたいなところがある。次から次へとろくでもないことが浮かんでくる。(中略)
つまり潜在意識に溜まっていた想念が坐禅をすることで顕在化してきたのだ。坐禅は潜在意識の顕在化を必ずしも否定してはいない。むしろこのことによって、心の奥底に溜まっている毒素が吐き出せるというのだ。このようにして次から次へと去来してくる雑念を吐き出すことによって、心の奥の不透明な種子を安楽死させることになるのではないだろうか。

この心の奥の不透明な種子とは、おそらく不安であったり、悩みであったりを表したものでしょう。潜在意識の中で、それらがたまり根を張ろうとしている。それを坐禅をすることで意識に顕在化させ、手放す(捨てる?)ことで、不安の象徴である不透明な種子を発芽させないようにする(安楽死させる)というこかと思います。

ここでいう「安楽死」は横尾忠則さんが坐禅によって体感した、エッセンスなどが集約された言葉のように感じました。

正直言って禅はよく分からない部分が多い

お地蔵さん

正直言うと「坐禅は心の安楽死」はかなり難しく、よくわからない部分も多かったです。

禅の言葉も難しいし、スピリチャルさを含む横尾忠則さんの言葉もよくわからない部分があるし、悟りを開いたお坊さんの禅味溢れる言葉も凡人にはすっと入ってこないところもありました。

ただ、この世界に「ある」ということはなんとなくわかったかも。禅の先に、一般的な知覚を超えたものが「ある」のだと。

それは、一般的な人が一生をかけても知覚できるものなのか、はたまた出来ないのかはわかりませんが、そういうのが無くはないということだけはわかりました。

「坐禅は心の安楽死」はスピリチャル嫌いの人や禅に全く興味がない人にはおすすめできません。しかしそういうのに興味があったり、横尾忠則さんの作品が好きって人は、彼の作品に対する態度や精神性を知るきっかけになるかもしれません。

坐禅の本でもちょっと毛色の違う、横尾忠則さんの「坐禅は心の安楽死」でした。

ちなみに、私の瞑想に関する記事もあわせてどうぞ>>5分の瞑想を習慣にすると毎日がガラリと変わった話