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【感想】「鼻下長紳士回顧録」下巻。最終回に思うこと

「鼻下長紳士回顧録」下巻。ラストに思うこと読書録

最近購入した安野モヨコ先生の「鼻下長紳士回顧録」下巻。

上巻の発行からかなり時間が経っていたので、もはや完結しないものかと思っていましたが、ようやく手元に届く日がきました。

読了後の感想「やっぱいいなぁ、安野モヨコは!」。

決していい話とかそんな類の漫画ではないと思うのですが、安野モヨコ先生の美意識がたっぷり堪能できる漫画。

平成を代表する女流漫画家が描いた、娼婦と変態紳士のめくるめく倒錯の世界「鼻下長紳士回顧録」の紹介です。

(以下、最終回に関する多少のネタバレを含みます)

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【感想】「鼻下長紳士回顧録」下巻。変態紳士の熱量と最終回

「鼻下長紳士回顧録とは

「鼻下長紳士回顧録」とは変態紳士たちの悦楽の館(売春宿)「メゾン・クローズ」を舞台を描いた、娼婦と男たちとのめくるめく漫画。

パリの売春宿「メゾン・クローズ(閉じた家)」は特殊性癖の持ち主をも満足させる、大人の社交場。

お客様は、日頃は紳士なれどその内面にジュクジュクとした変態性を持った方ばかり。

そんなメゾン・クローズで働く娼婦のコレット。彼女の唯一の救いはヒモ男のレオン。

たぶらかされているとはわかっていつつも、レオンを心の支えにしているコレット。

しかし、ある時からレオンは現れなくなる。

時同じ頃、コレットは自らの物語をノートにしたためるようになる。

安野モヨコ先生の美しい絵が輝いている

私、昔から安野モヨコ先生の絵柄が大好きです。

おしゃれで都会的といいましょうか。美しいんだけどかっこいい女性たち。

顔がとにかく良いんです。特に目。

安野モヨコ先生の描く目が好き

キリッとした時の目も良いのですが、アンニュイな表情の時の目がたまらなく好き。

「鼻下長紳士回顧録」では、そんな安野モヨコ先生が持つ美意識が遺憾なく発揮された作品。

出てくる娼婦の一人ひとりが特徴的で、うちに様々なものを秘めた感じのするキャラクターばかり。

どこか人生をあきらめているようで、でもそうではなくて。未来を見据えてもしかたなく、今の快楽を享受することのみ。

騙し、騙され、傷つけあい。それでも生きていかなければならない、娼婦たちの美しい生き様。

そういう世界観に安野モヨコ先生の絵柄がどハマりしている。私的に「鼻下長紳士回顧録」はそういう漫画です。

「さくらん」と「鼻下長紳士回顧録」の比較

安野モヨコ先生の作品で、同じ娼婦系の漫画で言えば、映画化もされた「さくらん」があります。

私は「さくらん」も好きなのですが、比較した場合「鼻下長紳士回顧録」の方が好み。

その理由は、どちらかといえば「鼻下長紳士回顧録」の方がアンニュイだから。

「さくらん」の主人公きよ葉はもっと活発な感じ。そして、きよ葉の一人舞台的なストーリー展開。

対して「鼻下長紳士回顧録」の方はもっと「メゾン・クローズ」の娼婦たち全体の人生が絡まり合って、複雑な世界観が成り立つ感じ。

それぞれの娼婦の行き様が感じられ、みんなの表面は明るくとも、どこか憂いを含んだ様子がいい。

あくまで私個人の感想ですが「さくらん」で全体にみなぎっていた力が「鼻下長紳士回顧録」では適度に抜けて、その抜けた余白に人生の深みが増した感じ。より一層大人の漫画としての魅力が増している感じがします。

変態紳士たち

そんな憂いを含んだ娼婦たちがお相手するのが変態紳士たち。

表向きは立派な紳士。中にはお孫さんもいそうなぐらいのおじいさんもいます。

しかし、彼らは内に一般的にいうところの変態性欲を抱えている人ばかり。

小鳥になって周りから汚されたい、犬になりたい、ずっと覗き見をしていたいなどなど。

そういう変態性を奥さんにいえず、かといって一般的な売春宿でも叶えてくれるわけでもなく。最終的に行き着くのが「メゾン・クローズ」。

なんとなく川端康成の「眠れる美女」的な世界観も(私は映画の「スリーピングビューティー」しかしりませんが)。一見枯れたじい様方の内に秘めたる性欲。

「鼻下長紳士回顧録」の面白いところは、そういう変態紳士たちが結構良いこと言うところ。変態だし、すっぽんぽんだったりする中で、なかなか人生に対しての名言なんかを繰り出しています。

変態「犬男」ムッシュヴィリの名言

「鼻下長紳士回顧録」下巻の中でターニングポイントだと思ったのが、ムッシュヴィリとの会話。

レオンが暴漢に殺されたと聞かされたコレット。しかし、それが真実かどうかもわからず、意気消沈する日々が続きます。

そんなかお客さんとして、「メゾン・クローズ」内でプレイを楽しんでいたムッシュヴィリ。彼はユリスという名前の犬になりきっており(すっぽんぽん)、皆に犬扱いされるのを好む変態さん。

そんなムッシュヴィリに対して、コレットは「ごっこ遊びする気力すらない」と拒絶します。そんなコレットに対して、素に戻ったムッシュヴィリが言った言葉。

「鼻下長紳士回顧録」犬男ムッシュヴィリの名言

僕は僕の中の「ユリスという犬」の物語の仕上げにここへ来るのだ。
単なる妄想はここで君にらに犬として取り扱われることで初めて「現実」という空気に触れる。
そして「妄想」が反転を起こすのだよ。
誰も見ていないなら脳の中で考えているのと変わらない。
それはこの世に存在していないと言うことじゃないのか?(中略)

コレットの頭では、レオンの死が信じられない。妄想の中では、彼はどこかにいる。

漫画内でもレオンの生死についての真実は、はっきりと語られません。しかし、変態ムッシュヴィリの一言は、コレットのその後の人生を変える一つのきっかけになった気がします。

この時私は確かに書くことでレオンがこの世界に現れるような気がした。

「鼻下長紳士回顧録」のラストでは、娼婦をやめ小説家として身を立てていくコレット。彼女の人生のターニングポイントは変態の信念と哲学からの名言からなるのでした。

創作と熱量

上記のことがきっかけで、小説を書くことを意識しだすコレット。しかし、自分がまだその域にないことも把握していました。

ただしそれは今までにない圧倒的な熱量でなければいけない。
圧倒的に巨大なものでなければ妄想と現実は反転しないのだ。

犬になりきり、快楽を享受する変態のムッシュヴィリ。彼の妄想が現実レベルまでに引き上げられているのは、そこに圧倒的な熱量があるからです。

何気ないシーンですが、創作をするものの苦悩なんかがつまった一言。

上手いとか下手とか超えて感動できるものって、そこに圧倒的熱量があるんですよね。たとえ技術的に上手くても、そこに熱量がなければ何か物足りないものに。

みうらじゅんという人は、若い頃からエロスクラップを作り続けて数十年。以前そのエロスクラップを体育館いっぱいに敷き詰めた写真を見たことがありましたが、それに不思議な感動を覚えました。

エロスクラップを作っていると言われれば、ちょっと変な人に見られる。しかし、ものすごい熱量で、それを作り続ければそれだけで人を感動させる何かになりうる。

>>みうらじゅんは現代の柳宗悦なのか?

コレットの場合も「書きたい」だけでは書けないのです。まだ、そこに、自らを焼きつくすほどの、自分の妄想を現実に変容させるだけの熱量がないのだから。

すっぽんぽんだし、ハゲているし、毛むくじゃらだし、変態だけど、ムッシュヴィリの変態性はその時点でコレットの創作意欲をはるかに凌駕するものでもありました。

【感想】「鼻下長紳士回顧録」最終回に思うこと

「鼻下長紳士回顧録」下巻の最終回を読んでの感想は、こういう終わり方でよかったなと。

特に劇的でもないラスト。割とソフトライディングな感じの着地点。自分の才能を見つめ直し、その人生で経験したことを小説の形にして、糧を得る人生。それはある種の自己肯定にもつながったのだと思います。

ある種、前中半に比べて、後半は淡々とした印象もうけましたが、それでもこのさっぱりとした感じが良い。

これはハッピーエンドでいいのかな。棚から牡丹餅的な感じもありますが、湿っぽく終わるよりもこういう終わり方の方が全体的にコントラストが出て良い。

レオンはおそらく死んだのであろうと考察します。曖昧さをもたせていますが、文脈から見れば亡くなっていると考えるのが妥当でしょう。でもコレットの中では曖昧で、不確定なまま。だから小説家の道が開けた。

現実ってすべてがはっきりとしていればいいというわけでもないのですね。時に曖昧で、薄暗いところに潜んで体と心を癒して。

けだるさの美。妄想から彩られる人生。

少し物悲しくも、美しさと強さを備えた世界が「鼻下長紳士回顧録」に詰まっています。

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