スポンサーリンク

【感想】「山月記」自尊心と羞恥心について

【感想】「山月記」自尊心と羞恥心 読書録

最近、ちょくちょく読み出しているのが古典的名作と言われる作品。

なんで最近読み出したかというと理由は二つ。

一つ目はKindleで著作権の切れたものが無料で読めるようになったから。

もう一つは、若い頃にはわからなかった、普遍的な名作の良さが徐々にわかるようになってきたからです。

そんな中、昨日読んだのが中島敦「山月記」。

20代のころも読んだことがありましたが、その時とは全然違う感想を抱くことができました(これも成長してるってことかな?)。

そんな「山月記」で感じたことなどを記したいと思います。

スポンサーリンク

「山月記」自尊心と羞恥心の果ての虎

「山月記」?虎になる話でしょ?

20代の頃にも一度「山月記」を読んだことがありました。

その時の率直な感想が「うん、虎に変身する話なのだな。」というもの。

感想もへったくれもありませんが、それぐらいにしか感じたものがなかったのです(今思うと若い頃の浅はかさよ)。

おそらく虎になった李徴の心持ちなどが、その当時はさっぱりわからなかったからでしょう。いや、今から思うと、進行形で李徴のようなところもあったのかも。

自尊心は高いのだけれども、失敗することを恐れた羞恥心から、なかなか行動できなかった日々。まんま当てはまりますね。

あれから10数年。いろいろ失敗しましたし、その分できることもわかってきたし、仕事の実績から自信などもついてきた。

そうした経験を持って、改めて「山月記」を読んだ今、虎になった李徴の苦しみがしみじみと胸に響きました。

李徴の自尊心の足枷、羞恥心が故の虎

李徴は内にある尊大な羞恥心が猛獣であり、虎であると言っています。

己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交わって切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。
かといって、又、己は俗物の間に伍することも潔しとしなかった。
共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心の所為である。
己の珠に非ざることを惧れるが故に、敢えて刻苦して磨こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった。
己は次第に世と遠ざかり、憤悶と慙夷とによって益々己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。
人間は誰でも猛獣使いであり、その猛獣に当たるのが、各人の性惰だという。己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。

自分に才能があると半ば信じながらも「もしそうでなかったら」と怯え、それを磨こうともしなかった。当然、そのような状態に結果が付いてくるはずもなく、妻子や友人など、周りの人間を苦しめる結果に。

恥ずかしい、羞恥心

己の中にある、羞恥心の末の、虎という偉業に成り下がったのでした。

私の若い頃にもこのような体験があったので、この部分が特に胸が痛くなりました。いや、多くの人にもこのようなことがあったのではないでしょうか。

よく、成功する人、チャレンジする人などを批判ばかりしている人がいます。技術面や内容、人格などを、さも自分はプロフェッショナルのようにネット上で批判する人。

しかし、そういう批判ばかりする人が何かチャレンジして、生み出しているかというと、決してそうではない場合が多い。批判はするが、何かを生み出すという行為は行っていない。

もちろん、単純にしたくないという人もいるかもしれませんが、失敗を恐れ、そして羞恥心が故に行動を起こせない人も多いのでは。

しかし、自尊心は高い。「なんで俺が出来なくて、俺より才能のないこいつが成功しているんだ!」。己の中の猛獣が荒れ狂い、ネット上で攻撃をする。しかし、自分を磨こうという行為には結びつかず結局何も成さぬまま時だけが過ぎていく。

自尊心そのものは生きる上で必要なものだと思います。しかし、それが臆病と結びついたものであるならば、行動する上での足枷にしかならないのかもしれません。臆病な部分の足枷を断ち切るには勇気による行動、そして失敗を恐れない、羞恥心の克服が必要なのかも。

もとより才能の有る無しではなく、それができる人こそが何かを成す人ではないでしょうか。

【感想】「山月記」無駄なプライドは捨ててしまえということ

プライドが故に行動できない。特に現代においては、様々な制約や相互監視的な状況からますますそれがこじれているような気もします(それをうまく使いこなして成功する人も多いですが)。

才能の不足を暴露するかもしれないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭う怠惰とが己の凡てだったのだ。

結局、李徴は臆病だったのです。いや、臆病を言い訳にしていただけなのかもしれません。

自然の中で考える

何かを成す。それは考えて、行動する。出てきた結果を改善、そしてまた行動しかないのです。李徴も羞恥心などに振り回されず、詩人としての成功のために、ひたすらPDCAを回していくのが最善の道だったはず。

李徴の、なまじ才能があったが故に猛獣と化した自尊心。それをも押さえ込み、目的のためにひたすら詩業に邁進していたならば、きっと成功していたはずなのに。

「山月記」に書かれていたことは他人事ではなく、今の自分の行動も見つめ直す良いきっかけになりました。

若い時ほどではありませんが、羞恥心が故に、行動を制限してしまうこともあるからです。しかし、その結果は何も成さないということが「山月記」にはよく表れている。

そして、その成れの果ては己の内なる猛獣に心乱され、人間味を失っていくばかり。

ここでいう人間味とは、思いやりや人生を楽しむということも含まれています。ようは自分の内への関心ばかりにとらわれず、外界に対して積極的に関心を、そして楽しみを見つけていく態度。

もし、最近イライラしていたり、何かに不満ばかり抱いている人はいちど「山月記」を読んでみることをおすすめします。はたして、自分は何かを成そうとしているのか。臆病な自尊心が足枷となり、その状態に甘んじているだけではないのか。いろいろ考え直すきっかけになるかも。

「山月記」を読んだ今、ネット上には李徴の虎が蔓延しているようにも感じます。

【関連記事】:【感想】「華胥の幽夢」責難は成事にあらずに思う事

タイトルとURLをコピーしました