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「考える教室〜大人のための哲学入門〜」こんな時代に読みたい本

考える教室〜大人のための哲学入門〜読書録

先日参議院選挙が行われました。

私がフォローしている人たちの間ではかなり盛り上がりがあり、投票率などにも結構期待しておりました。しかし蓋をあけてみれば、低めの投票率。

もちろん、どこの政党に入れるなどはそれぞれの考え方があるでしょうし、それについて何か言いたいわけではありません。

しかし、投票に行かないというのは、なにか自分で考えるという受動的な行為を放棄しているようにも感じました。先人の苦労によって獲得された我々の権利。これがあるからこそ、現状の生活への不満や思いを選挙という形で反映できるのです。

せっかくの機会。自分でこれからの日本、これからの自分たちの生活をよく考えた上でおこなえる権利。もしかすると、今回の投票率の低さはあきらめであったり、考えることを放棄する人の多さを示した結果なのではとも思いました。

考える。私たちは普段生活する上で、少なからず何かを考えています。しかし、それには強度というものがあるとも思っています。ちょっと考える、深く考える。考える一つとっても、すべて同じでなく、ある種技術的なものが介在するのかとも。

今回紹介する本は「考える教室」という本。古今東西の哲学者の考え方などをわかりやすく紹介した本です。

安易な情報が溢れる時代だからこそ、さらりとそれらを消費するだけでなく、ひとつじっくり考える機会を持とうではありませんか。

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「考える教室〜大人のための哲学入門〜」考えることを考える

古今東西の哲学者の考え方「考える教室」

哲学の本って、結構難しいイメージがあります。私も何度かチャレンジしてはみたのですが、哲学書というのは何を書いているのか理解するのが難しい。

文章の構造が複雑というのか、何について述べているのかを把握してついていくのにひどく骨が折れるという印象があります。

しかし、この「考える教室〜大人のための哲学入門〜」は平坦な言葉でソクラテス、デカルト、ハンナ・アレント、吉本隆明という四人の哲学者の著作をもとに、「対話する」、「考える」、「働く」、「信じる」という項目について書かれた本です。

100ページほどの短い本ですが、哲学の入門書としてはとっつきやすいかと思います。

哲学者、一生をかけて考え抜く人

忘れる、わからない

「考える教室」に出てくる内容は、紹介されている哲学者たちのほんのエッセンスにすぎません。さわり程度といってもいいでしょう。

しかし、いきなり原典に取り組んで挫折するよりはこのような本で概要をつかみ、その中で興味が湧いたものをより深く勉強していけばいいかとも思います。

また、エッセンスに触れただけでも、哲学者がいかに物事を深く考え続けていたかというのもよくわかります。

我々が普段、何気なく過ごし、見過ごしがちな事象。一見それが正解であり、当たり前のように見えるとしても、哲学者はそれに対して疑問をもちます。

たとえばソクラテスは有名な無知の知というものを残しています。

しかしわたしは、彼と別れて帰る途で、自分を相手にこう考えたのです。この人間より、わたしは知恵がある。なぜなら、この男も、わたしいも、おそらく善美の事柄は何も知らないらいしいけれど、この男は、知らないのに何かを知っているように思っているが、わたしは、知らないからこそ、そのとおりにまた、知らないと思っている。だから、つまり、このちょっとしたことで、私の方が知恵があることになるらしい。つまり、わたしは、知らないことは知らないと思う、ただそれだけのことで、まさっているらしいのです。

ある種この無知の知は数字の0の発見にも感じられました。おそらく、その時代には誰も知らないということなど考えもしなかったでしょう。知らないものは知らないのであるから無いに等しい。しかしソクラテスは知らないということを認識したのです。この一歩は考えるということに関して、ものすごく重要な一歩ではないでしょうか。もし知らないことを認めなければ、間違った知識の方向性へいったり、その考え方への探求がストップされてしまう可能性だってあるのですから。

一見単純なように見える事柄でも、ソクラテスが人生をかけて考えたことによって見つけ出したもの。ちょっと考えただけでは発見できなかったものです。

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デカルトの「方法序説」にて

ちょっと考えただけでわかった気になってしまう。そういうことも多々有ります。

現代は情報にあふれた時代。知りたいことも少し調べればある程度の答えにたどり着き、わかりやすく噛み砕かれた形で知ることだって可能です。

そんな中、哲学者デカルトの「方法序説」にこのような一文があります。

ある種の精神の持ち主は、他人が二十年かかって考えたことすべてを、二つ三つのことばを聞くだけで、一日でわかると思い込み、しかも頭がよく機敏であればあるほど誤りやすく、真理をとらえる力も劣り、かれらが私の原理だと思い込んでいることを基礎にして、とほうもない哲学を打ち立てるきっかけをそこから与えないためであり、またその誤りをわたしのせいにされないためである。

「考える教室」の著者、若松英輔さんはこの一文に対してこう述べられています。

早くわかることを美徳とする現代人は、この一節を再三読み直してよいと思います。事実を確認するのは簡単だ、しかし、それを生きるのは実にむずかしい。頭でわかることと、それを恥肉かすることはまったく異なる、というのです。(中略)この本を読んで学ぶべきことは、「早くわかる」ということではなく、「長く考える」ことです。早くわかろうとすることは、叡知に対する冒瀆だとすらデカルトは感じていたように思います。

私もそうですが、情報や答えに触れたときにそれがわかったような気になっているのかもしれません。しかし、じつはそれはただ情報を仕入れただけであって、真にわかったという血肉の状態には達していないように感じます。

与えられた情報に対して、受け取るだけではなく、考えるという受動的なフィルターを通す習慣が必要ではないでしょうか。

考えるきっかけに「考える教室」

虎

この「考える教室」という本を読んで、人生が開けたり、急に何かの発見があるとかそういう類の本ではないと思います(中には人生が変わる方もいるかもしれませんが)。

しかし、すくなくとも歴史に残る哲学者たちが、人生をかけて考え続けてきた輪郭だけでも触れることはできます。

そうしたものに触れたとき。果たして自分たちは、考えるということに真摯に向き合っているのか。そうした自問の瞬間がおとずれるかもしれません。

私的には、情報が多すぎるせいで、じっくりと考えるという行為そのものが見過ごされがちな世の中になってきているような気がします。

「考える教室」で紹介されている、ソクラテスやデカルトをはじめ哲学者たちの姿にふれることで、今一度考えるということを見直すきっかけになるかもしれません。

そうして深く考える人が一人でも増えれば、その波紋は少しずつ広がって、もう少し思慮深い世の中になる可能性だってあるのですから。

読書録
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