「十二国記」シリーズ、連投となりますが、今回は8作目「華胥の幽夢」の紹介です。
十二国記って読めば読むほど、その魅力が深まっていきますね。
緻密さ。以前にもブログに書きましたが、小野不由美さんが作り上げた精密な箱庭のような。細部の細部にいたるまで、工夫が凝らされていて、箱庭なんだけれど実在するかのような血脈のかよった世界観。
今回の「華胥の幽夢」は短編集ですが、この中で描かれているようなサイドストーリーが、十二国記の世界観の緻密さをさらに補強してくれています。
シリーズの中でも、私的にかなり満足の度の高い「華胥の幽夢」の紹介と、この巻でポイントとなっている「責難は成事にあらず」という言葉の意味についての感想を述べたいと思います。
※ネタバレあります
【前巻までの記事】:【感想】「図南の翼」珠晶の成長を描くロードムービー
責難は成事にあらず「華胥の幽夢」采王・砥尚の遺言に思う事
王にまつわる短編集「華胥の幽夢」
「華胥の幽夢」の夢は「十二国記」の短編集にあたる作品です。
以前紹介した「丕緒の鳥」も短編集でしたが、あれはシリーズ内でいままで出てこなかった、国を支える官や人々の話でした(参考:【感想】「丕緒の鳥」国を思い、働く人々の物語【十二国記】)。
「華胥の幽夢」では王やその側近を主人公にした短編集。これまでシリーズに出てきたおなじみのメンバーや、それまでに語られてきた国々の詳細が明らかになる巻。
「十二国記」はその名の通り、十二の国で起こる物語なので、いまだ謎に満ちた国や語られていない王の話などがたくさん出てきます。
シリーズ読んでいると、メインのストーリーだけじゃなく「詳しく語られてないけれど、あの国ってなんで滅びかけているんだろう?」とかが気になってしかたがない。
「華胥の幽夢」ではそういう痒いところに手が届く(?)話が結構乗っていたので、個人的に満足度の高い巻となっています。
采王の没落について語られる「華胥」
ほっこりする話から、シビアな話までまんべんなく収録されている「華胥の幽夢」。
その中でも、個人的に一番ヒットだったのが「華胥」という話です。ちなみに一番シビアな話で、かつ胸につきささる物語。「責難は成事にあらず」という、深く考えさせられる名言が出てきます。
「月の影・影の海」などで語られている話を現在とした場合、「華胥」は時間軸で言えば過去にあたる話。前采王・砥尚について語られています。
これまでのシリーズでも度々語られていますが、十二国記の王は仙籍に入っているので、基本的に老いる事も死ぬ事もありません。ですので、雁国や奏国など一人の王が500年越えの治世を行っているという国さえあります。
そんな中、砥尚の在位わずか20年で没落した才国。他国の没落のように、王が暴君になったわけでもなく、政治を投げ出したわけでも無い。芳国のように苛烈な法を敷いたため、クーデターが起きたというわけでも無い。
うまくいっているわけでは無いが、悪政を敷いているわけでも無い。なのに才国の麒麟である采麟が失道に陥った。
なぜそうなったのか、原因がわからぬまま混乱を極める才国とその没落について描かれているのが「華胥」です。
十二国記における失道
十二国記においては、天帝という神様的な存在がいるとされ、その天命によって王が選ばれるそう(麒麟が選ぶ)。
しかし、王が国を治めるべき道から外れた時、麒麟は病んでしまい、それは失道とよばれます。すなわちその王朝が終わる時。
「華胥」は采麟の失道がきっかけで、才国の没落が決定的になっていったようでした。
これまでのシリーズを読んでいると、失道に陥った麒麟は死んでしまうのかと思っていましたが、そうでも無いみたい。
麒麟が死ねば、それによって選ばれた王も同じ道をたどる。しかし、失道の原因を作った王が死ねば、麒麟は新たな王選びのため、復活するよう。
王と麒麟の関係性。王が麒麟によって選ばれた時点で、その運命は一蓮托生であり、死ぬまで逃れられないというのは、空恐ろしくもあります。
【感想】「責難は成事にあらず」に思う事
堅実で、ゆるぎない国づくりをしていると自信を持っていた采王・砥尚。しかし、最終的に失道は収まらず、自身の命を絶つ事で、次の采王に才国をつなげることを選びました。
その采王・砥尚の遺言が「責難は成事にあらず」という言葉。その意味は悪い事を責めるだけでは、何か事を成しているわけではないということ。
残されたものはこの「責難は成事にあらず」という遺言の意味から砥尚の失道の原因を悟ります。
砥尚は前王が暴君であったため、それを正そうと立ちあがり、そして王に選ばれた。しかし、王として行ったことは前王の真逆のことばかり。それは前王への批判(責難)で成り立った王朝でした。
前王の課した税金が高すぎるから、安くする。しかし、安くする事で公共事業が立ちいかなくなり、国力が回復する事はありません。結果、国や民の現状を見ず、前王にとらわれ逆の立場をとるということしかしなかった結果の失道なのです。
この「責難は成事にあらず」は胸にずきんときた。自分にも覚えがあるからです。いや、「華胥の幽夢」を読んだ多くの人が思い当たる節があるのではないでしょうか。
大きくみれば国政を責めたり、会社を責めたり、上司を責めたりする。一方的に責めるのは楽ですが、いざそれを行う立場になった時、はたして自分は何ができるのか。
おそらく、今のままでは何も成す事はできないでしょう。ただ、不満に思っている相手を責めることで満足してしまっているだけ。
もし、何か改革したい場合は、その責めている対象、不満に思っている対象は一度わきにどけて、ゼロベースで作り上げていくのが最善なのでしょう。
「以前がこう悪かったから、その真逆をしよう」だけではうまくいかないのです。前例にとらわれず、あくまで現状から答えを作り上げていかないと。もちろん、それだけはなく「事を成す」行動力が一番大事なのですが。
ふっと思ったのが、与党と野党の関係。連日、野党は与党を批判しています。もちろん、内閣や権力者の暴走を抑止する意味でもそれが必要なのは理解しています。しかし、いざ野党に事を成せと手綱をゆずったとき、何ができるのか。
ここでは過去の例は触れませんが、「責難は成事にあらず」はまさにこれだなとも感じました。
「華胥」は社会風刺がきいている
「責難は成事にあらず」というワードのチョイス一つとっても、「華胥」はかなり社会風刺がきいています。現実社会で、様々な会社や市町村見渡してこのような例は五万とある。現実にも反映されるような言葉だからこそ、私はこれを名言ととりました。
古い体制を批判し、若いリーダーが立ち上がる。しかしうまくいかない。今度はその若いリーダーを責める者が現れる。
若いリーダーは、古い体制の過ちを正し、新しい時代にあったやり方をしているのに、うまくいかない。「なぜだ?」となる。
残酷ですが、運も大きいと思います。社会や時代の方向性が後押ししてくれるのならば、事は成るでしょう。
しかし、時勢が悪く、どうしようもならない場合も多い。世界が全体的に不況の場合、一市町村において、新しく革新的なリーダーが立ったとしても、必ず成功するかは疑問です。
「責難は成事にあらず」と言い残した采王は王の才能がなかったのか?
「責難は成事にあらず」と言い残した采王・砥尚の場合はどうか。彼の場合も時勢や運が悪かったのか。私はそうとは思いません。
現実世界ならば、時勢や運はどうにもならない。しかし、この十二国記の世界においては、時勢や運も王の才能いかんで変わってくるような気がします。天命によって選ばれた王は、そういうものもいい方向に持って行くだけの才能があるはずなのです。
十二国記における王の才能というものは、ただ単にリーダーシップや治世の能力があるというだけでは済まされない、もっと複雑なニュアンスをはらんだもののようにも感じました。
残念ながら、王としての才能が無かった砥尚。彼の遺言である「責難は成事にあらず」は今後の才王に向けた、自分の人生の中で悟ったせめてもの言葉だったのでしょう。
シリーズを読み進めるほどに、これは人々の話というよりも国の話なのだということを痛感していきます。通常のファンタジーとは違う、国の存亡の物語。王の堕落は国の荒廃につながり、民の困窮となる。すべてが連動しており、国としていかなる形を見せているかも、十二国記の肝かと思います。
「華胥」における才国と采王・砥尚の運命を読む事で、十二国における王の存在に、また一歩踏み込めたような気がします。
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