スポンサーリンク

【感想】「高瀬舟」幸せとは何か?

川、船、夕暮れ 読書録

最近、いわゆる名作と言われている文学をちょいちょい読むようになりました。

kindleや青空文庫で、著作権の切れた名作を気軽に、無料に読むことができるようになったのと、その良さが少しずつわかる年齢になってきたからです。

20代のころにはわからなかった、その作品の奥にある人生の深みというものが感じ取れる年齢になってきました。これも、年齢とともに様々な経験をしてきたからこそのものでしょう。

>>【感想】「山月記」自尊心と羞恥心について

そんな名作と言われる作品の中で、特に心に沁みたのが森鴎外の「高瀬舟」。

満足とは、幸せとは。過去に比べ、豊かと言われる現代。しかし不幸せという人は後を絶ちません。そんな時代だからこそ読み返したい名作です。

スポンサーリンク

【感想】「高瀬舟」足を知る。幸せとは何なのか

豊かさと欲

へび

仕事をするようになって、お金が入り、そしていろいろな欲が出てくるようになった今、「高瀬舟」を読むと深く考えさせられるものがあります。

私だけでなく、現代というものはとても恵まれている時代であると思います。色々と言われてはいますが、それでも福祉は十分に発達しているし、貧困に対しても手当がある。

また、己の才覚でいかようにもお金を稼ぐ算段はあるし、チャンスは無数に転がっています。

バブルの頃は別として、過去の日本人に比べ、これだけ経済的に豊かな時代はないでしょう。お金が無いと言っている人でも、テレビがあり、スマホがあり、娯楽を享受できるそんな時代。

しかし、それだけ豊かな時代は欲を呼び込みます。自らと他人を比較してしまう。もっと、もっと豊かになりたいという欲。テレビやウェブはそんな欲を煽り立てる情報をバンバンながす。そして欲を満足させられない状況にたつと、己は幸せで無いと感じてしまう。また、蓄えたものを失う不安にも常にさいなまれる。

歴史的に見ても経済的には豊かではあるのに、限りない欲が幸せを感じ取れなくしている。そんな時代において「高瀬舟」を読むと足るを知るという言葉が自然と浮かんできました。

喜助の人生に見る「足るを知る」の幸せ

「高瀬舟」の主人公とでもいうべき男、喜助。彼は弟殺しの罪で、島流しの刑に。その道中の高瀬舟でのやりとりがこの小説の内容です。

喜助は島流しになるというのに、至極満足げな表情。同行の役人である羽田がその原因を聞くと、喜助はこれまでの人生を語り出します。

辛酸を嘗め尽くし、苦労に苦労を重ねた人生。しかし、捕まった今は働かずとも衣食住を出してもらい、その上島流し先での働きの元手としてお金までもらえた。このように自分の自由に使える金をもたせてもらったのは初めてだと。

喜助の弟殺しも、自殺を図って死にきれず苦しみ抜いていた弟を助けるが故の結果でした。

羽田は、このなんとも奇妙で満足げな罪人喜助の話を聞き、己の身と照らし合わせます。

自分の扶持米で立ててゆく暮らしは、おりおり足らぬことがあるにしても、たいてい出納が合っている。手いっぱいの生活である。
しかるにそこに満足を覚えたことはほとんどない。常は幸いとも不幸とも感ぜずに過ごしている。しかし心の奥底には、こうして暮らしていて、ふいとお役が御免になったらどうしよう、大病にでもなったらどうしようという疑懼が潜んでいて、おりおり妻が里方から金を取り出して来て穴うめをしたことなどがわかると、この疑懼が意識の閾の上に頭をもたげて来るのである。

羽田の暮らしは、十分なお金があるとは言えないまでも、生活するには足りる分はある。しかし、ふと金が足りなくなった時など、その現状が崩れ去ったらどうしようかと怯えている。すなわち幸せとは言えない状況なのです。

スポンサーリンク

一方の喜助。彼は羽田とは比べものにならないほど苦労を重ね、貧しい暮らし、そして果ては弟殺しの罪人として今まさに島流しにあおうとしている。しかしかれは満足げなのです。羽田は喜助をみて足るを知る男であると感じるのです。

喜助は世間で仕事を見つけるのに苦しんだ。それを見つけさえすれば、骨を惜しまずに働いて、ようやく口を糊することのできるだけで満足した。そこで牢に入ってからは、今まで得がたかった食が、ほとんど天から授けられるように、働かずに得られるのに驚いて、生まれてから知らぬ満足を覚えたのである。

喜助は、この状況になる前、苦労に苦労を重ねていた時でさえ、苦しくとも働き口があり、それでその日の食を得ることができるという状況だけでも満足であり、幸せだったのでしょう。その労苦は余人の想像を超えるものだったのかもしれません。

冒頭、羽田が喜助に「なぜそんなに満足そうなのか?」と尋ねた場面。

なるほど島へゆくというのは、他の人には悲しいことでございましょう。その心持ちはわたくしにも思いやってみることができます。しかしそれは世間でらくをしていた人だからでございます。(中略)
わたくしはこれまで、どこといって自分のいていい所というものがございませんでした。こん度お上で島にいろとおっしゃってくださいます。そのいろとおっしゃる所に落ち着いていることができますのが、まず何よりもありがたい事でございます。

ここに出てくる二人の男、喜助と羽田。比較という点でいえば、豊かなのは羽田であることは間違いありません。しかし、その時点ではるかに満ち足りていて、幸せな状態であるのは喜助なのです。

罪人といえど、食があり、手元にいくばくかの金があり、居住地がある。今、喜助にある現状。生きていけるだけの現状。それだけで十分に満ち足りているのです。喜助は足を知るからこそ、現状幸せに違いありません。

「高瀬舟」に見る幸せとは何か

お地蔵さん

以前、「さまぁ〜ずの神ギ問」という番組の最終回で、「失うものがない人と守るべきものがある人のどちらが強い?」という企画をやっていました。

哲学者や心理学者、宗教者、アスリートなど様々な方にインタビューされていましたが、結果としては結論は出ませんでした。人それぞれ、状況に応じて変わってくるという事。

しかし、「高瀬舟」においては、あきらかに喜助は「失うものがない」からこその現状の満足を覚え、羽田は「守るべきもの」があるからこその不安や不幸せを覚えているように感じます。

喜助には、常に必要最低限のものしかなく、もはや失うべきものなどない。弟殺しという罪はかぶったが、死刑になることはなく、命をつないだ。もはやそれだけでありがたいことだと認識しています。

我々を含めた現代人。経済的に豊かであるからこそ、失う事への恐れはつきません。失わないように、蓄える。それがさらなる不安を生むという悪循環を起こしているのかも。足を知らない、そんな時代。

正直、喜助の真意を想像はできても体感として理解する事は難しいです。しかし、一つの幸せのモデルとして、そこから見出せる事は多々あるでしょう。

「高瀬舟」を読み、自分の現状を振り返る。今、自分は幸せか?不満や不安はないか?

もしそれが、何かを失う事や、足りないということに怯え、不安に思っているのならば。そう人にこそ「高瀬舟」には「足るを知る」幸せとは何かということの、一つの答えが発見できるでしょう。

【関連記事】:【感想】「山月記」自尊心と羞恥心について

タイトルとURLをコピーしました