あまりに凄みのあった映画「JOKER」。多くの人が感想を語り合い、そしてこの映画に対する考察を述べられています。
その中で、私が最も興味を惹かれた「ジョーカーになった瞬間はいつか?」についての考察や感想を述べさせていただきます。
※ネタバレ含みます!
【感想・考察】映画「JOKER」でアーサーがジョーカーになった瞬間とは?
映画「JOKER」観てきました
今年一番話題の映画といっても過言ではない「JOKER」(以下ジョーカー)を観てきました。
もうね、なんというかね、最初っから最後まで痺れっぱなし。最終的にジョーカーとなるアーサーを演じるホアキン・フェニックスの演技がとにかくすごい。内にヤバイものを抱えている、繊細さと狂気を併せ持ったというか、暴発しそうな孤独な男を見事に演じきっています。
最近の映画好きの友人と会話する時にも「ジョーカー観た?」という話題から始まることが多かったのですが、確かに誰かに語りたくなる映画。決して楽しいとか面白いとか、そういう一言で語り得ない映画なのですが、多くの人に見て欲しい作品であります。
これまでに見たことのない、暴力的な映画
それじゃあ、いろいろな人におすすめできるかというと、それもちょっと難しい。正直、これほどリアルに暴力的なものを感じる映画は観たことがありません。
例えば「マッドマックス」だって「ディパーテッド」だって、「ゴッドファーザー」だって暴力的ではあります(参考:ジャック・ニコルソンの狂気がほとばしる映画「ディパーテッド」)。しかし「ジョーカー」での暴力シーンは、何か人間の影の部分をえぐるような、鋭さとリアルさのある暴力シーン。
直接的な暴力だけでなく、民衆の暴動や不満といった、そういうものひっくるめて、暴力的。
かといって、バイオレンス映画という括りではない。やはり、これはアメコミ界ナンバーワンの人気ヴィラン(悪役)ジョーカーという狂気の男の映画なのです。
アーサーがジョーカーになった瞬間とは?
始終緊張を強いられる映画、ダレ場なく、つねにピンと張り詰めたものがありました。
それが何なのか考えた時、当初障害を抱えながらも一般人として暮らしているアーサーが、どの瞬間にジョーカーへと変貌するのかという緊張感から来るものなのだろうと考えました。
私はジョーカーについて、これまで映画などで描かれたキャラクターしか知らないなりにも、人間性のない狂気の存在という認識をしています。
アーサーはセンシティブな面も見えますし、親孝行なところも描かれている。この男が、いかにして人間性を喪失し、狂気の道化師ジョーカーへと変貌するのか。その恐怖が始終つきまとっているのでした。
映画の中で、アーサーはゆるやかに、しかし確実に狂気の世界へと足を踏み入れていきます。
映画の最後、そこに写っているのは、確かにジョーカーでした(いろいろな考察がありますが、たしあにあれはジョーカーだと思います)。では、アーサーはいつどの瞬間にジョーカーとなったのか?その瞬間というものを私なりに考察してみたいと思います。
最初に殺人を犯した時点?母親を殺した時点?元同僚を殺した時点?
アーサーがジョーカーになったであろう瞬間はいくつも考察できます。その中で、特徴的な瞬間をいくつかあげていきましょう。
まず最初にウェインカンパニーの従業員3人を電車の中で殺害したシーン。道化師の格好をしたまま、電車に乗るアーサー。ウェインカンパニーの従業員が同乗する女性にちょっかいを出す、その瞬間にアーサーの笑いの発作が始まります。
そんなアーサーに暴行を加える従業員たち。アーサーは持っていた銃で3人を撃ち殺してしまいます。この時点では、まだアーサーに恐れ、戸惑いなどが見受けられ、ジョーカーにはなっていないでしょう。
次に、母親を殺害するシーン。実は母親は精神疾患を患っており、幼い頃に暴力を受けたことや自分は養子であることも知るアーサー。それにショックを受けたアーサーは、母親の殺害に至ります。
この後、アーサーはアパートの同じ階に住む女性の元へ。その女性と恋仲だと思っていたのに、実はそれはアーサーの妄想。この時点から、狂気への道のりが加速していきます。
母親殺害の時点でも、私的にはまだジョーカーになっていないと感じました。なぜならば、女性の部屋に行った時、アーサーはひどく落ち込んでいたからです。その落ち込みには、まだ人間性が感じられます。
アーサーは、憧れのテレビ番組、マレーのショーへの出演が決まります。顔を白塗りにして、いよいよジョーカーのメイクをしていくことに。そこへ、元道化師の同僚二人が訪ねてきます。その一方はアーサーに拳銃を渡し、アーサーが道化師の仕事をクビになるきっかけを作ったやつでした。
アーサーは、その男をハサミで殺害します。この時点でアーサーはジョーカーなのでしょうか?いいえ、それも違うと思います。ハサミで殺害した後、息を弾ませながら、ひどく興奮していましたし、一緒に訪ねてきていた小人(こちらも元同僚)を「君だけは優しくしてくれた」と殺さなかったからです。
この、心理的な揺れや、一抹の優しさなどにも人間味が感じられ、まだジョーカーにはなっていないと感じます。
この後、警官から逃げるシーンにも、アーサーが必死に逃げるそぶりがあるので、この時点でも違うと思います。
では、一体アーサーはどの瞬間にジョーカーとなったのか。
それは、マレーのショーのカーテンが開いた瞬間だと私は考察します。
【考察】ジョーカーになった瞬間はマレーのショーの舞台に立った時
マレーのショーのカーテンが開き、アーサーが舞台に立った時。この時こそがジョーカーになった瞬間だと私は考察するのです。
ジョーカーは、ショーマンのように気取ったポーズをとりながら生放送の舞台へと進めます。共演者の女性に長いキスをし、マレーとショーにのぞむ。
その中で、ジョークを披露するものの、まったく会場ではうけない。そんなやり取りをする中で、ジョーカーは自分がウェインカンパニーの従業員を殺した犯人であると暴露します。
その後のマレーとのやりとり。最終的に生放送中にマレーを拳銃で撃ち殺すジョーカー。マレーを撃ち殺しても平然とし、おどけたような表情をカメラに見せます。
これまでのアーサーでしたら、殺害の後に何らかの心の動揺のようなものが見られたでしょうが、ここではそれは見られませんでした。これまでに見られた動揺や焦り、怒りなどがない状態。これこそが、私がアーサーのショーにでた時がジョーカーになった瞬間だと考える理由です。
おそらく、生放送でマレー殺害を流すことを、一つのショーとして構想しながら舞台に出てきたのでしょう。そこには、ジョーカーとしての、人間味を排除した狂気の思考回路がなしえた結果なのだと思いました。
もちろん、本当はどうかわかりませんし、人によって解釈は多数あると思います。あくまで、私なりの考察として受け取っていただければ幸いです。
ラストに見せる本当の笑顔
映画「ジョーカー」のラストで、ジョーカーは一度逮捕されながらも暴徒たちのカリスマとして祭り立てられます。そしてその後、再逮捕。のちアーカム州立病院(アーカムアサイラム?)に収監されます。
ラスト、カウンセラーと対談するジョーカーは「ジョークを思いついた」というやり取りをしながら、笑顔を見せます。
あのシーンだけが、彼が唯一純粋に笑っている場面です。この映画には、いくつかの笑い方が登場します。アーサーの苦しみから生まれる笑い、彼が大勢の一員になろうとするときの偽物の笑い――これが僕のお気に入りなんです――、そして最後にアーカム州立病院の部屋で見せるのが、唯一、彼の心からの笑いなんですよ。
とジョーカーの監督トッド・フィリップスは答えています。
私的には、これまで様々なしがらみの中で、本当に笑うことのできなかったアーサーが、ジョーカーになることでしがらみから解放され心から笑えるようになったとも解釈できました。それは、ある種人間性の放棄ともとれるかもしれません。
ただただ、狂気に染まったスーパーヴィラン、ジョーカーという存在として。
今まで様々な役者さんがジョーカーをこなしていますが、ダークナイトのヒース・レジャーに匹敵するぐらい、ホアキン・フェニックスのジョーカーは凄みがありました。
本人も、世界中にファンを持つジョーカーを演じるということには相当プレッシャーもあったことでしょう。しかし、見事にやり遂げていたと思います。
おそらく、二度、三度と見ることで、この映画の解釈が変わっていったり、新たな発見もあることでしょう。実際に、何度も観に行ったという人も大勢いるようです。
アメコミ映画という枠を超えて、ある種映画の金字塔となりそうな「ジョーカー」。まだまだ世界のジョーカー熱は冷めそうにありません。