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谷崎潤一郎「陰翳礼讃」暗がりによって培われた日本人の美意識とは

谷崎潤一郎「陰翳礼讃」暗がりと日本人の美意識デザイン・アート

日本人の美意識。最近では、海外から来た旅行客にインタービューをして、あらためてそれを再発見するなんて番組も流行っています。

日本人の美意識について、考えてみると、京都の仏閣、庭、着物、浮世絵などがまず思い浮かぶのではないでしょうか。

そういうものはわかりやすいですし、たしかに美しい。しかし、今回紹介する「陰翳礼讃」で紹介されている美意識はそういうものとは一線を画します。

現代を生きる我々にとっては感覚的にわかりやすいものではないですが、読み解くにつれて、日本人の文化の中で培われてきた独特の感性や美的感覚が読み解ける本。

影や暗がりの中で培われてきた、日本人の美意識について書かれた「陰翳礼讃」の紹介です。

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日本人の美意識を論考。谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」

日本人の美意識への論考。デザイナー原研哉推薦の「陰翳礼讃」

作者は作家の谷崎潤一郎。「細雪」や「痴人の愛、「春琴抄」など独特のエロティックな美しさのある世界を得意とする作家さん。

その谷崎潤一郎が、日本人の美意識について論考したのがこの「陰翳礼讃」です。

私が本書をに興味を持ったのは、デザイナーである原研哉さんの名著「デザインのデザイン」の中で「陰翳礼讃」を推薦していたのを読んだからです。

原研哉さんといえば日本を代表するグラフィックデザイナー。ものすごくシンプルな中に、日本人の感性にフィットする美しさを備えたデザインを得意としています(参考:「デザインのデザイン」原研哉の名言まとめ)。

当時美大でデザインを学んでいた私は、そんな原さんが推薦するのだからきっと何かの役に立つかもしれないと読んでみることに。

しかし、正直なところ当時の私にはいまいちピンとくるところがありませんでした。なんかむずかしくって。。。

あれから十数年。読書歴を重ね、またデザイナーとして実務を重ねた上で「陰翳礼讃」を読むと、当時とは違った発見が多数ありました。

暗がりの中で培われた日本人の美意識

和室、暗がり

「陰翳礼讃」の内容とは、タイトル通り陰影を礼讃(誉めたたえる)するもの。

明治生まれの谷崎潤一郎が近代化し、色彩においても昼夜問わず明るくなっていく日本において、昔からの日本人の美意識について書き残したものです。

本の趣旨として、そもそも現代のような明々とした伝統の無い時代、日本家屋は極めて薄暗いものであったというところから始まります。日本人の漆器であったり、襖絵はそういう、暗がりの中で見てこそ真価を発揮するように作られている、と。

その時私が感じたのは、日本の漆器の美しさは、そう云うぼんやりした薄明かりの中に置いてこそ、始めてほんとうに発揮されると云うことであった。(中略)

漆器と云うと、野暮くさい、雅味のないものにされてしまっているが、それは一つには、採光や照明の設備がもたらした「明るさ」のせいではないであろうか。事実、「闇」を条件に入れなければ漆器の美しさは考えられないと云っていい。(中略)

古えの工芸家がそれらの器に漆を塗り、蒔絵を画く時は、必ずそう云う暗い部屋を頭に置き、乏しい光の中における効果を狙ったのに違いなく、金色を贅沢に使ったりしたのも、それが闇に浮かび出る工合や、燈火を反射する加減を考慮したものと察せられる。

たしかに、何か物を作る時、その製作者(デザイナー)はそれが置かれる、使われる環境までを考量してつくらねばなりません。とすれば、電灯の無い、日中においても暗がりが日常を占めていた時代においては、そういう空間において最も美しく映えるように漆器などが進化していったのもうなずけます。

そういう風に美術や工芸品が作られていったということは、日本人が本来持つ美意識には暗がりという空間と密接に結びついているとも考えられます。

物の色は環境によって印象が変わる。当たり前のようで、現代のような明々と画一的な光量の下に生きる我々には忘れがちなこと。

特に、私のようにデザイナーをしている身にとっては、デザインしたものが置かれる場所の光量を、改めて意識し直さなければとも考えさせられました。

闇の堆積した色とは。明治生まれの谷崎潤一郎の感覚

漆器

艶っぽい作風からも、独特の美的感覚と表現を持つであろう谷崎潤一郎。

昔からある漆器の肌は、黒か、茶か、赤であって、それは幾重もの「闇」が堆積した色であり、周囲を包む暗闇の中から必然的に生まれ出たもののように思える。

上記の一文など、その独特の鋭い感性が感じられます。漆器の色が「闇」の堆積した色であるなどの表現は、明々とした電灯の元で暮らす現代人の我々にはなかなか見出せない鋭さ。

谷崎潤一郎のように、明治時代位に生まれ、幼少期電灯の無い時代を生きたからこそ、まだかろうじて、それら日常の暗がりという感覚が身についていたのでしょう。

そして、その感覚と日本人が培ってきた美意識とをつなぎ合わせ、「陰影礼讃」として残したことは、後世の日本人にとっても、自分たちの美的センスのルーツをさぐる重要なものになると思います(参考:美味しんぼにも影響。格調高いグルメエッセイ「北大路魯山人」)。

羊羹(ようかん)の色彩について

羊羹(ようかん)の色

谷崎は東洋人が玉や瑪瑙のように不透明な色彩を好む感覚にも言及。西洋的にクリアでピカピカ輝くものよりも、やや手垢のついた、くすんだような色合いのものを好むと言います。

とにかくわれわれの喜ぶ「雅到」と云うものの中には幾分の不潔、かつ非衛生的分子があることは否まれない。

その色に対する感性について、日本人の愛する菓子、羊羹(ようかん)に話が及びます。

玉のように半透明に曇った肌が、奥の方まで日の光を吸い取って夢みる如きほの明るさを啣(ふく)んでいる感じ、あの色あいの深さ、複雑さは、西洋の菓子には絶対見られない。
クリームなどはあれに比べると何と云う浅はかさ、単純さであろう。だがその羊羹の色合いも、あれを塗り物の菓子器に入れて、肌の色が辛うじて見分けられる暗がりへ沈めると、ひとしお瞑想的になる。ひとはあの冷たく滑かなものを口中にふくむ時、あたかも室内の暗黒が一箇の甘い塊になって舌の先で融けるのを感じ、ほんとうはそう旨くない羊羹でも、味に異様な深みが添わるように思う。

なんとも艶めかしい文章でしょうか。羊羹の色彩を捉える感性もさることながら、その表現においても谷崎の美意識が冴え渡っています。

羊羹というありふれた菓子ですが、そこに「瞑想的」、「室内の暗闇が一箇の甘い塊になって」などの表現を込めるなど文豪というものの凄みすら感じます。

また、この文章を読むと、谷崎と同じシチュエーションで羊羹に向き合いたいという欲求も。

薄暗い室内、塗り物の器に乗せた羊羹。イメージとしてはなんとなくわかるのですが、実際にそれと対面した時、もしかすると想像以上の美がそこにあるのやもしれません。

「陰翳礼讃」を読むことの意味

基本的に、画一的な明るさが保障されている現代にあって、昔の日本人が持っていたであろう淡い明るさへの細やかな感覚は廃れつつあるのかもしれません。

そういう現代において、谷崎潤一郎の「陰影礼讃」は日本人が本来培っていたはずの感覚を、再度見直すためのきっかけになるのかもしれません。

我々が忘れつつある、薄暗さ、それに伴った美意識などを再認識する意味でも現代日本人が「陰影礼讃」を読む価値は大きいでしょう。

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