前回、人間関係で嫌なことやストレスがあった時に聴く落語という記事を書きました。
落語は江戸時代から現代までの、人生における様々なシチュエーションが題材にされています。
人間関係、経済的な事、親子関係、上下関係、その他もろもろの出来事。人間の良い部分、悪い部分、ずるい部分、よく深い部分全部ひっくるめてオッケーとしてくれるのが落語の面白いところ。
意外と、落語の中の笑えるストーリーの中に、人生の辛い事や悩み事を切り抜けるヒントが詰まっている事も多いです。
日々のちょっとしたストレスなんかを夜の寝る時まで引きずらず、落語ですっきりさせて快眠目指しましょう。
今回は将来がちょっぴり不安な時におすすめの落語を紹介したいと思います。
お金に不安になった時に聴く落語
貧乏なんて気にしない「長屋の花見」
江戸時代、当時の江戸に住む町民の多くは長屋という集合住宅に住んでいました。そんな長屋の中でもかなりの貧乏長屋でのお話。
貧乏長屋の住人がそろってお花見に行こうという事になりますが、お酒も肴もありません。
長屋の大家さんがお酒に見立ててお茶を、肴にはかまぼこと卵焼きに見立てた大根のつけものとたくわんを用意します。
そんなもので盛り上がるわけではないものの、能天気な長屋の連中はみんなそろって花見に出かけます。
半ば無理やり、大家さんの「酒盛り」ならぬ「お茶か盛り」に付き合いますが、それはそれでみんななんとなく楽しそう。
上方(大阪)落語では「貧乏花見」の題で演じられます。
でてくる長屋の住民揃って貧乏。お金はないけど暇と時間ならある。くよくよしていてもしかたがないっていう能天気さがあります。
おそらく、当時は割と全体的に貧困だったようですし、この長屋の花見に出てくる人たちはその中でも毎日のご飯にも心配するようなお金に縁の無い貧乏暮らしの住人です。
しかし、落語にでてくる人々は、そんな貧乏を苦にしないバイタリティーがあります。おそらく当時の人たちはそういうものを持っていたのでしょう。
くよくよ悩んでも仕方がない、とりあえず楽しんでみようじゃないかって意気が感じられる落語です。
知恵とユーモアの大切さ「掛け取り(掛取万歳)」
年も押し迫った大晦日。当時の買い物はツケが主流で、晦日に集金に来るという習慣がありました。
お金がすっかりなく、どうにもお金を払えない八五郎。金の払いをなんとか伸ばそうと、掛け取り(ツケの回収にくる集金人)の好きなもので対応していきます。
家賃を取りに来た狂歌好き大家には狂歌で、喧嘩好きな魚屋にはけんかで、芝居好きな酒屋の番頭には芝居で、そして最後に三河屋の主人には三河万歳(現代の漫才の元祖)で対応しますが…
お金が払えない八五郎の「ない袖は振れない!」的な腹のくくり方が好きです。
お金は算段できなくても、知恵を振り絞り、ユーモアを駆使して急場をしのぐ。待てば海路の日和ありでとりあえず今は乗り越えようという姿勢に見習うべき点が多々有ります。
いざお金がなくなった時「ダメだ、どうにもならない」と思うのか知恵を振り絞ってなにかアイディアを出すのかでは大きな差。普段の姿勢でも、いざという時でも知恵を絞れ、ユーモアを常に忘れない姿勢でありたいと思います。
漠然とした不安やちょっとした悩みがある時に聴く落語
バカバカしさが癖になる「蒟蒻問答」
蒟蒻屋の六兵衛さんの元には江戸を食い詰めて逃げてきた八五郎が住んでいます。八五郎はかさ(梅毒)にかかっていたので頭の毛が抜けてつるつる。
六兵衛さんは八五郎に無住寺(住職のいない寺)の住職でもやってみろといいます(当時は結構適当ですね)。
お経も何にもしらない八五郎は寺の住職になりますが、ある日永平寺の旅の僧がやってきて問答で勝負しろと言います。
問答にちんぷんかんぷんな八五郎。問答するまではいつまでも居座るという旅の僧をなんとかその日は帰しますが困り果てます。
そこで蒟蒻屋の六兵衛さんが一計を案じ、寺の住職と偽って旅の僧と問答勝負をしますが…
とにかくバカバカしい話。旅の僧だけ真剣そのもので、六兵衛さんも八五郎も、もう一人でてくる権助さんもみんないいかげん。
旅の僧の真面目さがかえって他の人々のいいかげんな面白さを引き立たせてくれる落語です。
私はちょっとしたことで悩んだりした時は「蒟蒻問答」が聴きたくなります。
六兵衛さん、八五郎、権助のいいかげんなバカバカしさに触れていると、小さな不安を抱えたり悩んでいることがバカバカしくなって、どうでもいいやって気になってくるからです。
もちろん不安や悩みがある時に、しっかり考えて答えを導くのも大切ですが、答えのでないことで不安がループしている時などは、「蒟蒻問答」聴いて一旦リセットもいいもんです。
※「蒟蒻問答」はラスト部分で、手まねをするシーンがあるので、一度映像で観ないと音声だけでは分かりづらいかもしれません。
人間いざとなれば大きく変化する「ふたなり(半陰陽)」
ある夜更け、猟師をしている亀右衛門さんのところに、村の若い者がお金のことで相談しにきます。10両ないと村を夜逃げしなければならない二人の若者。
あいにく持ち合わせのない亀右衛門さん。しかたがないので、その夜更けに隣村の知り合いの家まで10両借りに出かけます。
隣村に村に行く途中の森で若い女に出会います。その女お腹に子供が出来たが、相手の男にだまされて逃げられたとのこと。そこで死ぬつもりであるのだが遺書を実家へ届けて欲しい。届けてくれたら手元にある10両をお礼に払うといいます。また、その女、死に方がわからないので教えて欲しいとも言います。
お金が必要な亀右衛門さん。遺書を届けるのを承諾し、10両受け取ります。そして死に方として、首をくくる方法を教えてあげますが、その途中で誤って自分が首くくりであの世の人へ。
死ぬのが怖くなった女の人、亀右衛門さんの懐から10両だけ取り返し、遺書はそのままにそそくさと逃げてしまいました。
亀右衛門さんの帰りが遅いのを心配した若者が森へ行くと首吊り姿の亀右衛門さん。お役人を呼んで、取り調べがはじまりますが…
首吊りがでてくるなどかなりブラックな噺ですが、この女の人の変化が見どころの一つです(オチも見どころ。こんだけ引っ張っといて駄洒落かよっていうバカバカしい噺)。
最初はもうダメだ、死のうとまで思っていたのに、亀右衛門さんの死に姿を見て180度考え方が変わります。
「こんな姿になるのは嫌だ。街まで行ってお腹の子を産んでなんとか生きていこう。10両あればしばらくは暮らせる。大丈夫だ。」と(女の人の心情の変化を細かく演じる落語家もいますが、リンクしている古今亭志ん生バージョンではこの部分はあっさりと演じられています)。
とたんに肝の太くなった女の人。生き死にのインパクトの中での劇的な変化。もうダメだと思っていても、何かのきっかけで吹っ切れるってことあるかと思います。
自分の中で答えは出せなくとも、一歩踏み出したり誰かに聞いてもらったり、誰かの行動を見聞きすれば考え方がガラリと変わってブレイクスルーになるかもしれません。
落語の中の人間模様、陽気だったりシリアスだったり、いいかげんだったり、しぶとかったり。
直接的には問題解決しませんが、気分的なものは落語で解消できる部分があると思います。
どうにかこうにかなっているたくましさを見習い、毎日のささいな不安を吹き飛ばしましょう。
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